羊の羊による羊のための攻略Book

羊のおニート脱出日記

「働きたくない」というあなたへ②/山田ズーニー

「働きたくない」というあなたへをよんで色々と思ったこと、感じたこと、自分の傾向と対策、自戒。
その2。

その1はこちら。
sleepingsheep3.hatenablog.com




「母はどうして、ここまでがんばれるのか?」

本の中に、このような問いかけがあった。

著者のお母様(専業主婦)がどんなに体調が悪くても、愚痴も言わず、不満も言わず、自分がやりたいこととか自己実現だとかそういうことではないことに対して頑張ることの尊敬というか、何故だろうという疑問だった。私もわからない。

頑張っているというか、人の「当たり前」レベルが人によって違うんじゃないかと思う。そしてその「当たり前」を本当に当たり前に出来る人は、覚悟があるんだろうと思う。それはこの本の言葉を借りて言うと、そこがその人の戦場であるということなのかもしれない。



「場に身を置ききっている人」と、「まだ置ききれていない人」

この視点が出てきたとき、ちょっと読んでいてハッとした。

私は以前仕事をしていたとき、所属は正社員だが様々な現場を転々としていたことがあった。どの仕事でも当然きっちりやるものだとは思っていたけれど、まぁ嫌だなぁと思う業務もあったし、もっと頑張りたいと思う業務もあった。でも常に「いずれここからいなくなるしな」という気持ちがない訳でもなかった。

周囲にいた「場に身を置ききっている人」たちは「まだ置ききれていない人」であった私にさぞ思うところがあったんじゃないだろうか。失礼なことになげやり感を隠せていなかったと思う。周囲がどう思うかすら考えられていなかったかもしれない。私は私の権利を確保することにしか意識が向かなかった。

きっとそういった環境でも、自分に求められた役割を果たす=仕事に対して身を置ききることが出来る人というのはいると思うし、今はその会社で一生勤めるという時代でもないのかもしれない。
でも多分私は「自分の戦場はここだ」という安定感が持てないことが苦手であり、指示系統が複数あることに混乱した。

帰属意識を感じて身を置く場所が確保できたほうが、「場に身を置ききる」覚悟をする上で安心できるんじゃないかと思ったので、次に働くときはそこを意識し、出来れば長く勤めたい。


一次会だけでも顔を出しなさい

会社の飲み会に参加するか否かの話がここでも出たな、と読んでいて思った。最近の若者は飲み会に参加しないと言われているというニュースは沢山目にする。私自身が年齢的に最近の若者に当てはまるかどうかはわからないが、飲み会に積極的に行きたいかと聞かれるとちょっと迷うかもしれない。私の理由はこの2つな気がする。

・飲み会に意義を見出せない
・プライベートに干渉されることや自己開示がとても苦手である

以前苦手である自覚がないままに、コミュニケーションを取らなければという変な努力をして自分をオープンにしすぎたことがあった。羊はこのくらい踏み込んで大丈夫だと周囲の方は思い距離感が近くなったが、私がそれに耐えられなくなった。よって開示しない!最初から飲み会行かない!・・・に至った。開示の程度が下手ゆえに起こった、黒か白かの思考だ。

だが、この本に書いてある考えには納得させられた。人間関係を下記のような3層に分けて考えるというものだ。

第1層:配偶者・恋人・親・親友
第2層:友人や親戚などある程度の距離を持って付き合っている人
第3層:私的なことは持ち込まない、仕事などにおける人間関係

これは・・・もしかしなくても常識と呼ばれることなのかもしれないのだけれど、お恥ずかしいことに、私は人によってとるべき距離感や対応、話すべき内容が違うということを知らなかった。なので誰に対しても第1層のような関わり方をしたんだと思う。だからなんだか距離感が近いな、と感じた人は離れていき、えっ?こんな近くていいの?やったね!という人が集まった。なんということだ・・・今ちょっと我ながら衝撃を受けている。

第2層の中でも距離感のある方や第3層がグレーゾーンと考えられるようだ。このグレーゾーンが今の時代は非常に薄く、だが実は心の助けとなってくれるものらしい。

気にかけてくれる近所のおばさん、1回話したことのある人、挨拶はする人、など。ほどよい隣人程度の「関心を払ってくれる」存在。必要以上の干渉もしないがまったく知らない緊張する存在でもない。
飲み会というのは、一緒に仕事をするときにそういった安心を作るきっかけなのかもしれない。

だけれど、そういったグレーゾーンの関係は、助けになってくれて嬉しいからといって飛びついて頼っていいものではない。にこにこと話を聞いてくれたからといってプライベートの重い話をいきなり相談してはいけないものなんだ・・・。
そうか・・・人はその距離感やどの人にはどこまで話してもいいというものをわかっているものなんだ・・・。私はそこをの認識を間違ていつも自滅していたのか・・・。

全ての人と同じように仲良くしなければならないのではなく、それぞれにおいて相応しい密度での人間関係を作る必要があるということです。

・・・本当にその通りだと思う。


<透明マントをかぶる若者>

最近の子を見ていて思うのは「自分のことを知られたくない」という態度を取る人が多いな、ということです。自分のことは明かさないで、(つまり自分は安全なところにいて)、相手からの情報だけをほしがっている。

私のことだ・・・。

関心をもたれることで自分が評価されることを怖れている。

そ・・・その通りかもしれない。

だけれど透明マントを被っているくせに、気付いてほしい気持ちもある。自分のことを全て受け入れてわかってくれる人がきっとどこかにいるはずだ。(そんな人はいない)
その心境はとてもよくわかる気がする・・・。私も自分を見せないでいるのにも関わらず、わかってほしいわかってほしいということを求めていた。

自分のことを知られるのはすごく抵抗がある。このブログにしても公開することに耐えられず消した記事もあったし、ちょっと自分のプライベートや無知さを許容量に反して書き過ぎていないだろうか。でも自分を公開せずに得られる評価はない。
人の目に付くところに置くということは、批判されることも覚悟するということ。また、個人情報や様々なところの利益を損なうようなことを書いてはいけないということ。
匙加減は難しい・・・。そこは気をつけないといけない。

評価されることを怖れないためにはどうしたらいいのか考えてみた。

・着実に何か出来ることを積み重ねる。
・傷ついても立ち直れると信じる。

1度失敗したら終わりではないし、傷つかずに生きていける人間なんていない。敏感でありちょっと凹み度合いが大きいから困るけれど、少しずつでも成長できると信じ・・・たい。